黄金色の後先

たまアリじんくん公演行ってきました。
セトリに沿った感想はまた後日あげますが、とりあえず、総括というか全体を通した感想を。
ネタバレもあるかと思いますので、閉じますー!























結論から言うと、楽しかったです。
ですが、逆に言うと、それだけだった、とも言えるんです。
それはなぜか、といえば、たまアリにいたのは、Jin AKANISHIであって、「ワタシにとっての赤 西 仁」(あくまで「ワタシにとって」ってことね)ではなかったから。
だから、見ている間、感傷も全く湧かなかったし、涙どころか哀しみも切なさも全く湧かなかった。自分でも意外なくらい、カラッと楽しんで見ました。
日本語曲のcareとかムラサキとかを聴いても、全然普通に聴けたなあ。
なんというか、Jin AKANISHIが赤 西 仁の作った歌のカラオケを歌っているような印象を受けてしまって。
不思議な気持ちで見てましたねえ。

例えて言うなら、Jin AKANISHIはまるで赤 西 仁が創り出した「創造物」のように見えたというか。
ステージを見てて思ったんだけど、ダンサーもセットの一部のように感じたし、ワタシたち客の位置づけもセットの一部になっているような印象を受けたし、むしろ、Jin AKANISHI本人ですら、赤 西 仁が創り上げた世界を体現する創造物のように見えた。

ものすごく頑張ってたなあ、と思います。歌もダンスも。
けれど、そこから、強い意志、のようなものは感じられなかったんだよなあ・・・。
赤 西 仁という創造主が創り上げた世界の中でだけで、精神的に完結してしまっているように見えた。
赤 西 仁の創り上げた世界の空気に包まれているJin AKANISHIは、カツンコンのときのように、他のメンバーの中でアイデンティティーを意志を持って確保する必要もなくなり、一歩前に出て目立つ必要もなくなった分、そのパワーをどこかに置いてきてしまったのかなあ。
ワタシが6人の時が大好きだから、とかそんな了見で言ってるわけではなく、カツンのコンサートで見てたじんくんは、ソロの順番が回ってきた時に
「やった!やっと自分の好きな事をやれる!見て!みんな見て!」
という気合やアピールが自然に湧き出てたように見えたんだ。けど、さいたまではそれが感じられ無かった。
一番顕著に感じたのは、ラブジュを歌った時。
一番最初にラブジュを見たのは、2008年のきたえーるでなんだけど、あの時に見たラブジュは、恐ろしいほどカッコよくて、右手の指をまるでそこから何か光が出ているんじゃないかというほどヒラヒラさせて、軽やかに脚でステップを踏みながらしなやかに花道を移動する姿を見ながら「この人にこの瞬間恋していない人はいないんじゃないか」と心から本気で思ったの。それくらい素敵でカッコよくてどうしようもなく惹き付けられたのよね。だけど昨日のラブジュは、とってもダンサブル、けれどそれだけ、の曲で。きたえーるで見たときのような衝撃は到底無かったの。ワタシ的には。

こう書いていると、ワタシダメだしばっかりしているみたいだけど、Jin AKANISHIのこと、全然嫌いじゃないです。楽しかったのは本当。
だけど、カツンのじんくんを見ていた時のような、湧き上がる思いというのは、抱く事はないだろうなあ、と思いましたね。
楽しいし努力もしてると思ったし才能もあると思ったけど、この人に心を奪われることはないだろうな、と。
しびれるような胸を掻き毟られるような心が張り裂けそうないてもたってもいられないようなどうしようもなく愛おしい感情を抱く事はないんだろうな。
ただ、楽しい。それだけ。






ステージ構成の基本が日生のをベースにしているからか、やっぱりハコが広さとあっていなかった印象をうけました。そこはすごく残念で正直日生で見たかったなあ、と悔しかった。日生だったらもっと楽しかっただろうな、と。逆にいえば、ハコの広さを考慮に入れてステージ構成を考える事は出来なかったのか、と尋ねたくなったというか。

で、ワタシはこの公演はワタシなりに楽しんだんですけど、それは、「楽しもう」と気合を入れてた(笑)からかもしれない。公演の構成というか性質というか、そこに相互性は無いから。みんな盛り上がれー、みたいな分かりやすい煽りはないし、仕掛けもないから。
じんくんが楽しんでいる姿を見て楽しめるかどうか、客の自主性にかかっているので。このステージから発信されるものは、音楽的に見ると偏った傾向なので、客側の踊りや音楽や英語に対する嗜好や能力、そして何よりもじんくんに対する思いの強さや思い方とかで、受け止め方が全く違ってくるだろうな、とは感じました。





あ、そうそう、ワタシは曲をほとんど知らずに行ったので、モニターの歌詞を見ながらじんくんを見ながら、みたいな感じで結構忙しかった(笑)。
やっぱり、ざっくりとでも詞の内容は把握して行った方が絶対楽しめると思いました。せめて、事前に歌詞カード配って欲しかったなあ。


一緒に行ったM嬢が、「詞の内容が「束縛からの脱出」か「恋愛」かのどちらかだね」と看破してましたが、その通りだと思いました。M嬢とも話してたんだけど、英語という言葉の性質がそうさせるのかもしれません。じんくんに限らず、英語の歌って日本語の歌より内省的な詞が少ないよねー、みたいな。

じんくんすごく努力してたと思います。けれど、それが、どうも内向きな傾向があるんじゃないか、と感じたなあ。他者への顕示のために努力するんじゃなくて、自分自身のために努力しました、みたいな。ある意味凄いと思うし、嫌いじゃないんだけど、エンターテイナーとしてはどうなの、と問いたい部分も有るなあ・・・。

そして、最終的に、彼は何がしたかったのか、は未だ結論が出ていません。
それは、今回のCDの選曲とか売り方とかも含めて。
ここでは、今回の公演に限った話をしますが、公演冒頭にスクリーンに言葉が出てくるんですが、その言葉の感情のベースは「被害者意識」なんですか?と彼に問いたくなった。
今から、Jin AKANISHIとして公演を始めようとしているのに、何故過去を否定するともとれる言葉を発する必要があったのか。
というのも、結局、その言葉を回収するような終り方をしていなかったからね。もしかしたら何かあるのかな、と思いながら見ていたけど、結局何も解決を示してはくれなかった。
じゃあ、あの言葉には何の意味があったのかな、って。
赤 西 仁の持っている世界、ってもっと広くて深くて楽しくてワクワクするものだ、とワタシは思っているの。
だけど、それを表現するのに、あの言葉は必要あったのか。
ショーのモチーフとしてしまうくらいにベースになっていれば、まだ納得はいったんだけど、そういうものでもなかったし。
華やかで楽しくて踊って歌って・・・ショーってそういうものじゃない?
だったら、「被害者意識」とも取れるようなそんなしみったれた感情は要らない。
ワタシ、Jin AKANISHIには、軽やかでいて欲しい。好きなことやって、楽しくて、見ているこっちも思わず踊りだしちゃうような、そんな風でいて欲しい。赤 西 仁を求める事を出来ない今、せめてJin AKANISHIの世界にいるじんくんは笑っていて欲しいの。だって、じんくんって誰よりも華やかでカッコよくてみんなが恋しちゃうような人でしょ?
だから、被害者意識なんて屁のツッパリにもならないような感情に囚われないで欲しいよ。そんなのはワタシみたいな暗くていじけてる人間がジメジメ抱いていればいいの(笑)
そりゃ、じんくんにだってつらい事もしんどい事もこれからあると思うけど、それをじんくんの持っている素晴らしさでそんなもの吹き飛ばして欲しい。それが出来る人だと思ってるし、そのために今やりたいことやってるんでしょ?ねえ。




公演中、外国人ダンサーと並んでいるのを見ながら、じんくんがどんなに普段着みたいな衣装しか着ていなくても、明らかにこの人は「スター」なんだな、と痛感してました。ジャニーズの人たち(jrも含め)がいかに華がある人たちか、というのもよく分かった。外国人ダンサーに心の中で気の毒に思うほどに。技術ではどうしようもない世界、というものがあるんだよね。
そして、じんくんが有り余るほど持っている、その「華」をいつまでも咲かせ続けてくれますように、と、そんなことを感じた公演でした。