ウソ・ホント

下のエントリでも触れましたが、ワタシがECOさんの詞にどうして心動かされないのか、というと、ワタシにとって、あまりに言葉の選び方が直接的、ってことがある。
それはあの人が書くどのテーマに関しても同じなんだよなー。恋愛系もそうじゃない分野も。どんなジャンルの詞を書いても、なんか「日本語の奥深さ」っつーものを感じない。プロなのに、悪い意味でプロっぽくないっつーか。
あ、難しい言葉を使うってことじゃないよ!そういうことじゃないの。
例えば、好き、ってことを、「好き」という言葉で表現しちゃいそうな大雑把な言語感覚を感じる。
もしECOさんの詞がストリッパーだったら、パッパと服脱いじゃって、余韻とかなにもなさそうじゃない?チラリズムとか焦らしとか演出ゼロ、みたいな。擬人化したらそんな感じ(笑)。
言葉の中に「間」が感じられないの。人の心に生まれる「間」の中に潜む、ためらい、はじらい、とまどい、おそれ。そういうものが全然感じられない。歌詞の内容とは関係なく、言葉のチョイスそのものの問題ね。
シンガソングライターは、歌う人のパーソナリティー込みで書くから、稚拙な詞でも構わないと思うの。歌うの本人だもん。
でも、作詞家として、本人のパーソナリティーが必要とされない曲の作詞をするんだったら、もう少し、いや、もうだいぶ(笑)技術と機微が必要だとワタシは感じる。虚構だからこそ、「緻密に計算された自然さ」が欲しい。
虚構だからこそ、単なる写実的な言葉以上に共感することが出来る時があるわけで。
特に作詞って、単なる言語の写実表現では見えない部分を引き出し、それを装飾したりそぎ落としたりして、言葉を紡ぎ上げることで、感じる「何か」ってあるからさー。
どんなに物理的に生活が豊かになっても、人には、小説だったり漫画だったり歌だったり演劇だったりっていう「嘘」が必要なのは、そういうものによって得られる「心の真実」が欲しいからじゃないのかな。
そして、それを与えてくれるプロの作詞家さんをワタシは支持したいな、と思うわけです。だーかーらー、SPIN先ー生ーもどってきてえええ!!!(切!実!)